色、か

 将軍の旦那の「色」を読み、とても驚かされた。というのも、俺も常々同じようなことを考えてきたからだ。

 言語は便利なものである。あらゆる現象が混ざり合った混沌の世界から、ロゴスを用いることによってある共通理解を持つ事象を掬い上げる。この作業を繰り返すことで、人類は相互コミュニケーションという釣果をあげてきた。しかし、掬いあげたその事象が当人にとってどのような意味合いを持つかということに関しては言語は明らかにしてくれない。それどころか、掬いあげたものが同じかどうかさえお互いの確認をとることができない、いわば盲目の釣り遊びである。

 「赤」というロゴス自体は日本人なら誰でも共有しているものであり、そこに行き違いが生じることはまずない。しかし、「赤」を<赤>と万人が認識しているかはどうかは現段階脳科学では実証不可能だ。同じ「赤」の光の波長を受け取っても、それ脳がどうイメージするかについては、おそらく100年200年では解明不能だろう。この私が持っている「赤」のイメージである<赤>をいかに言語を駆使して説明しようともその試みは徒労に終わるだろう。言語を使う際のロゴスの認識を、ロゴスでもって確認できようはずがない。例えば私が<赤>を「炎が燃える際の色で、暖かい印象を抱かせ、4×10の八乗の波長をもつ光」と表現しても、相手にとって炎の燃える色が<蒼>で、それに暖かい印象を抱いていればそれまでだ。波長という普遍的事実を述べたところで何になろう。

 問題なのは、「赤」を<蒼>と認識している人がいることではない。「赤」を<蒼><翠><銀>と認識している人もいるということを理解していない人がいるということが問題なのだ。「赤」は<赤>でなければならない。誰もが皆同じイメージを共有しなければならない。このような思い込みが人類が言語を獲得して以来、常に争いの火種となってきた。時にはこの「赤」が「神」や「真理」や「愛」に置き換わって。このような思い違いをしている者に限って「人類皆同じ」「話し合えば理解できる」などと見当違いなことを平気で公の場で口にするのだ。

 私たちがするべきは、「赤」を<赤>で統一することではない。いわんや<蒼>にすることでもない。個人個人の平板な感覚が絶対的ではなく、そこに様々な捉え方があるということを理解し、無理に相手と同調させないことである。

 ここまで書いて、最後にこの記事の真の意図。「色」ってタイトルをみて、色欲とかそっち系の記事かなーと思ってワクワクしてたが、そんな要素が一つもなくがっかりしたことへの将軍に対する当てつけである。